「アメリカとアジア 太平洋をはさんで想うこと」2/9
当時(1995年ごろ)の日米の貿易インバランスに業を煮やした米国通商部が主導権をとって「日本のメーカーはけしからん。完成品の自動車が輸入できないのなら、せめて米国製の部品を買え。」
そういってサンフランシスコでMEMAとJAMAのお見合いが始まりました。(MEMAはMotor Equipment Manufacturing Association, JAMAは日本の自動車工業会)
対する日本は、当時の通産省が音頭をとっていたと思います。デールが社長をしている会社は、全米の優秀な部品メーカーの50社に選ばれました。
ロサンゼルスに8年駐在の後、オハイオに工場を建てた私どもの会社は、大手自動車メーカーと取引が始まっていました。取引が始まるまでにちょうど10年の年月がかかっていました。私はオハイオの会社の代表取締役として、滞米生活14年目を迎えていました。
いろいろなプロジェクトを一緒にやっていた私とデールは、もうそのころにはツーカーの仲でした。ある日急に呼び出しが彼からかかりました。一緒にサンフランシスコに行こうと言い出したのです。
「全米の優秀な部品メーカーの50社に選ばれた。日本から購買担当の役員、最低でも購買担当部長 合計300人が大挙してくる。お前が俺の会社の技術通訳をしてくれ。」というのがその趣旨です。
プロの通訳がいるだろうと私。彼曰く「プロの通訳といえど技術が分からない奴に通訳を頼みたくない。技術は日進月歩―だから構造の分からない通訳が訳するととんでもない翻訳になる。だからお前が必要だ。」と言われたのです。
そして最後に、お前に頼むとタダだろとにやりと笑うのです。(あとで分かったのですが、あの当時技術が分かる通訳など東京でも数えるくらいしかいなかったそうです。そしてびっくりするくらい高い料金です。同時通訳者の日程で国際会議の日程が決まると言われるほど数が少なかったのです。)
清水 大輝
筆者略歴
- 昭和47年 工学部機械工学科卒業
- 三井系の機械メーカーに就職
- 海外製鉄所向けのプラント
見積もり設計の国際入札の窓口を5年経験 - ケミカルメーカー
国内営業を経験後、フィリピン・マニラに駐在事務所を開設 - シンガポール駐在を経て米国ロスアンゼルスに赴任
- 米国でデトロイト、アトランタの事業所を開設
- LAとオハイオに工場を建設
- ノースアメリカの代表となる
- 大手自動車メーカーとの取引を10年かけて開始
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