【海外体験記】売る英語と買う英語のお話
今日は「売る英語 買う英語」をテーマにお話しします。
1980年、LAに赴任しました。あの有名なRodeo Driveには、ブランド品のお店が並んでいます。当時、日本の野球選手やプロレス選手、芸能人などがこの街を歩いていたものです。
この町は、シカゴのマグニフィセントマイル(Magnificent Mile)と並ぶ有名ブランドのお店の通りです。
また、リトル東京には紀伊国屋や日本人相手の土産物屋が並んでいました。今なら大谷翔平選手の名前入りTシャツなどが飛ぶように売れているでしょうね。
皆さんがハワイやLA、はたまたシカゴでお土産やブランド品を購入するときの英語と、ご自分が例えばGMで技術英語を駆使して売り込みをかける時の英語、どちらが難しいと思いますか?答えは言うまでもないと思います。
買うときはお金を払う方ですから、売り込む人が何度も何度もご本人が理解できるまで色々な分かりやすい例を挙げて説得してくれます。あとは値段交渉ですので、これは数字でどこかで妥協点を探るだけです。
売る英語は、多分それの10倍あるいは100倍以上の語彙力と専門技術があって初めて成り立ちます。また、納期や1% 10Daysなどの商習慣(ネット30日払いと10日後の支払いであれば1%の値引き)など、知りうる限りのあらゆる言葉を駆使して相手に理解させなければなりません。
ですからLAにまさに一兵卒 – 肩書は営業課長ですが 周囲の米国人のマネージャーなどはお手並み拝見です。君は英語が上手いねとか言われているうちはまだお客さん状態です。
アメリカ人の同僚が私の実力を認めるまで1年はかかっています。
一般的なイメージでは気の良いアメリカ人ですが、自分のポジションが危なくなる相手には牙をむいて襲い掛かります。そして相手の実力を見て大したことはないと判断すると、また気の良いアメリカ人に戻ります。
駐在員は3〜4年、長くとも5年で帰国すると知っているからです。結果としてですが、私のように17年間LAとシンシナティに住み着くなんて、誰も想像できなかったと思います。
アメリカに赴任して本当に赤字続きのとんでもない会社でしたが、赴任3年目からずっと右肩上がりで、実績も出始めました。最初の頃は社員の給与も綱渡りの状態でした。まだ外貨規制が厳しく、日本からそうそう援助もできない時代でした。
英語をいかにしてマスターするかについて色々と考えると、はっと気付いたことがあります。
私はアメリカでほとんど兵隊で赴任。段階を経て、オハイオで現地法人の代表になりました。そしたらトップになった途端に、英語がまずくなったように感じ始めました。
そうか、自分は部下から自分を売り込む英語を聞いているのだな。つまり部下を評価する、買う英語をしている。部下はあらゆる表現で分かりやすい語彙で私に理解させてくれます。
だから企業のトップなどで、しかも日本語で生活できるLAのトーランス市などに赴任すると、よほどの覚悟で毎日を過ごさないと英語は絶対に上手くなりません。
ましてLAあたりには、日系スーパーや床屋、マッサージなどの日系人社会があり、人によっては全く英語なしで生きていけるインフラがあるのです。
そして日本語のできる秘書は、逆に言うと英語を習得しようとする人にとってはこれは良い環境ではありません。バイリンガルの秘書やアメリカ人のマネージャーは、日本から赴任してきたトップの身の回りのお世話をすることが仕事だと本気で思っている、いわゆる気の良いアメリカ人がいます。
自動車メーカーを各社5〜6年ごとに渡り歩いて30年、結構な年金で気楽な生活をしている人を見たり聞いたりします。あのカリフォルニアの気候の良いところでのんびりとチャレンジもなしに良い生活だと一見見えますが、東部のマイナス20度の厳しい環境で若い頃は鍛えた方が良いと私は思います。GMやその他、カミンズエンジン、AC Delcoなど、みんな錚々たる会社で相当なやり取りをして、よくぞ生き残ったなというのが今の私の思いです。
ともあれ人間、環境の動物です。若いときはどんどんチャレンジしましょう。
No Challenge No Lucky だと最近思っています。
「売る英語と買う英語のお話」より抜粋
清水 大輝
筆者略歴
- 昭和47年 工学部機械工学科卒業
- 三井系の機械メーカーに就職
- 海外製鉄所向けのプラント
見積もり設計の国際入札の窓口を5年経験 - ケミカルメーカー
国内営業を経験後、フィリピン・マニラに駐在事務所を開設 - シンガポール駐在を経て米国ロスアンゼルスに赴任
- 米国でデトロイト、アトランタの事業所を開設
- LAとオハイオに工場を建設
- ノースアメリカの代表となる
- 大手自動車メーカーとの取引を10年かけて開始